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ひがしくるめの花ごよみ(ウメ 第4回)

ページ番号 1017083 更新日  令和3年3月12日

ウメ (第4回)しんみやまえ親水こみち(下里5丁目5番付近)

ウメはそろそろ終わりに近づいていますが、まだ見ることはできます。写真は3月3日に撮影。毎年のことながらこの時期黒目川の水が枯れて残念ですが、日当たりが良く快適に散策できます。春の野草のタンポポやオオイヌノフグリ、ナズナなども咲いてきました。

ウメ1

ウメ2

ウメ3

ウメ4

ウメ5

ウメ6

梅の歴史(4

江戸時代 梅と徳川家康

 徳川家康が晩年を過ごした駿府城には美しい梅の木がありました。熟すと種が二つに割れる大変珍しい木で、実割梅と呼ばれていました。当時、駿府城ではこの実割梅から梅干をつけ、東照宮に納めるしきたりだったようです。この木、徳川家康公が自ら植えたものと言われており、木はその後、駿府城から東照宮の境内、唐門下に移植されました。

梅で「福面」

 江戸時代の銀山では、鉱山病が深刻な問題となっていました。そこで対策として、梅肉を使ったマスクを使用してみたら効果が絶大だったそうです。鉄の枠に梅肉を挟み薄絹を張った防毒マスク「福面」は、酸の効果で鉱塵を寄せつけず、口の中も乾燥しなかったといわれています。世界遺産の石見銀山でも、「福面」は鉱山で働く人々に効果があったと言われています。

紀州の梅干が江戸へ

 紀州の梅干が木樽に樽詰めされ、江戸に向けて船でたくさん出荷されました。

薬用として珍重されていた梅干が庶民の食べ物として広まったのは江戸時代のこと。江戸の人々の梅干を食べる習慣が全国に広がっていき、梅干の需要は次第に高まっていきました。当時の梅干は塩分20%前後のしょっぱいもの。また、朱色のしそ漬梅干が出来たのも江戸時代になってからとされています。

みなべ(和歌山県)で梅栽培の始まり

 江戸時代、あまり米が育たないみなべの田畑を見た藩主は、お米ができない山の斜面に生命力のある梅を植えさせて、年貢の軽減と農作物の育成に努めました。そして、みなべ周辺に「やぶ梅」の栽培が広がっていきました。やぶ梅は果肉が薄く小粒だったため、長い年月をかけて土地の人々が品種・土壌の改良を重ねた結果、現在の南高梅のような肉厚で大粒の梅が実るようになりました。

梅とコレラ菌退治

 江戸末期になって、諸外国からの来訪者が増えたことで疫病が大流行し、1800年ごろには全国で2回、コレラが流行しました。このときに梅が大活躍したのです。

コレラ菌が有機酸に弱い菌であることは知られていませんでしたが、当時の人々は体験から、梅干には強い殺菌力があることを知っており、治療に役立てていました。その後、明治8年のコレラ流行の時にも梅が活躍しました。梅干はコレラ菌にも強いのですね・・・。

 

株式会社トノハタ(本社:和歌山県日高群みなべ町)ホームページより許可を受けて再掲

https://www.tonohata.co.jp/ume/history/

 

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