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ひがしくるめの花ごよみ(ウメ 第3回)

ページ番号 1016945 更新日  令和3年2月23日

ウメ (第3回)東久留米市役所屋外ひろば(本町3丁目3番)

春めいてきたかなと思えるこの頃ですが、市役所屋外ひろばのウメは早くも満開に近くなって、良い香りを漂わせています。このウメは平成9年に市役所の本庁舎が現在地に移転した折に、姉妹都市10周年を記念して群馬県榛名町(現在の高崎市榛名地区)から贈られたものです。
榛名梅林は役400haの広大な土地に、約12万本の梅が植えられ、東日本一の梅の産地で、群馬県は和歌山県に次いで全国第2位の梅の生産量を誇っています。
この梅の木は毎年立派な花を咲かせ、「東久留米の名木百選」にも選定されています。
ウメは中国原産で古くから全国で栽培されていますが九州の一部で野生化しているものがあるそうです。花の香りが良いのは成虫で越冬するハナアブなどを呼ぶためと言われています。

ウメ1

ウメ2

ウメ3

ウメ4

ウメ5

梅の歴史(3

鎌倉時代 大盤振舞の語源 - 椀飯に梅干

 気前がいいことを「大盤振舞」といいますが、この語源にも梅がかかわっています。鎌倉時代の大切な儀式のひとつとして、元日より数日にわたり有力な御家人が将軍に対して椀飯を奉る「椀飯振」というものがありました。献立は椀飯と打鮑・海月・梅干の3品に酢と塩を添えたもので、折敷に載せて出したといわれています。「椀飯振」がのちの「大盤振舞」という言葉の語源となったそうです。

室町時代 梅干で戦も元気

 室町時代、梅干は食欲亢進剤として、武士の間で用いられるようになりました。戦国時代になっても、梅干しはまだ食品ではなく薬でした。梅は武士の時代、戦国時代の戦の際に食べられた野戦糧食の一つでした。栄養を手早く摂取でき携帯しやすいことや、保存性、手に入りやすさや作りやすさなどが重宝されたのです。これが、梅の木が全国に広がったきっかけと言われて名所が各地にあります。

安土桃山時代 梅×秀吉×千利

 ある春のこと、豊臣秀吉が床の間に置いた水を張った大きな鉢の傍らに、紅梅一枝だけを添え、千利休に「この鉢に、この梅をいれてみよ」と命じました。側近たちが「これは難題だ」とハラハラして見守っている中、利休は平然として紅梅の枝を手に取ると、紅梅の花とつぼみだけをさらりと鉢に入れたのです。水面に浮かんだ紅梅の花の風情に、秀吉は上機嫌になったといいます。さすが・・・利休さん。

 

株式会社トノハタ(本社:和歌山県日高群みなべ町)ホームページより許可を受けて再掲

https://www.tonohata.co.jp/ume/history

 

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