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東久留米の歴史

ページ番号 1000483 更新日  平成27年4月1日

歴史

長い歴史を持つ東久留米市には原始・古代の遺跡をはじめ、多くの文化財が残されています。普段見慣れた街並みですが、ちょっと視点を変えて歩いてみると、新しい発見があるかもしれません。東久留米市を知っていただくために、その特徴と歴史の概要を紹介します。

東久留米のあゆみ

原始の人々

東久留米の地に人類が住み始めたのは約3万年前の旧石器時代のことです。約1万年前まで続くこの旧石器時代の遺跡が湧水と河川に面した台地上に数多くあり、当時の人々の生活の跡や道具の石器が発見されています。
つづく縄文時代の遺跡は市内で最も多く、特に約5000年前の中期の大規模な集落跡が台地上に何個所もあります。

特に立野川南岸の自由学園南遺跡の中期集落は武蔵野台地でも最大規模の集落跡の一つとして知られています。
このような原始時代の遺跡が市内では100カ所以上発見されています。
米作りが始まる弥生時代になるとほとんど遺跡が残されていません。それは、東久留米の地形が細い川と低い台地で成り立っているため、米作りに適さない土地だったためと思われます。

古代と中世

奈良時代や平安時代の東久留米も、米作りに適さなかった土地のためか、小さな村がいくつかあっただけでした。下里本邑遺跡や向山遺跡で小さな集落跡が調査されています。

中世では、鎌倉時代や室町、戦国期の供養搭である「板碑」が市内には数多く存在し、それらを生み出した集団や寺院のあったことが分かります。当時武蔵野一体は、多数の小武士団が割拠していた時代でした。そして、時は戦国の世となり、最終的に徳川家康が天下を統一し、江戸に幕府を開きます。

江戸の村々

江戸時代になると、武蔵野は大都市江戸の町の食料供給地の役割を担うようになります。本市域では、正保年間(1644年から1648年)には門前・神山・落合・小山・南沢・前沢・下里の7カ村がありました。その後、元禄期に柳窪村ができ、享保年間(1716年から1736年)になると、幕府の新田開発の奨励により前沢新田や柳窪新田が開かれました。

江戸時代の村は幕府の政策により複雑な支配体制がとられていました。幕府直轄領と旗本の知行地に分かれますが、市内に領地を有した旗本として、米津(よねきつ)家、蜂谷家、田中家、小野家、矢部家、神谷家があります。米津家は、一万石以上の大名で、初代の田政は江戸町奉行として知られています。幸町にある米津寺は米津家の菩提寺で、四代の当主や親族の墓碑が並び、江戸時代大名墓所の景観を今に伝えています(東京都指定史跡)。

村から町、町から市へ

1868年に明治政府が誕生すると、市域は行政的に大きな変化を受けます。
明治2年には品川県、5年には神奈川県に編入され、その後数度の変遷を経て、明治22年に門前・神山・落合・小山・南沢・前沢・下里・柳窪の8村、柳窪新田・栗原新田・各飛び地を編入して久留米村が誕生しました。

久留米村は典型的な農村地帯ですが、その後の村の発展に大きな影響を与えたのが大正4年に池袋―飯能間に開通した武蔵野鉄道(現在の西武池袋線)と、東久留米駅の開設です。この駅の誕生により、生産物や物資の流通が進み、人の往来も盛んになりました。

東京近郊の農村の姿を留めていた久留米村は、第2次大戦後人口が増加し、昭和30年には10,000人に達しました。
昭和31年に町制が施行され、30年代後半からひばりが丘団地・東久留米団地・滝山団地・久留米西団地などが次々と建設され、人口は急激に増加しました。特に昭和35年(約19,000人)から45年(約78,000人)までに4.1倍の増加を記録し、日本で最も人口の多い町となりました。

そして、昭和45年に東京都で22番目の市として「東久留米市」が誕生しました。

このページに関するお問い合わせ

教育部 生涯学習課 文化財係
〒203-0033 東京都東久留米市滝山4-3-14 わくわく健康プラザ2階
電話:042-472-0051 ファクス:042-472-0057
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