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戦争にまつわる体験談等を公開します

ページ番号 1026162 更新日  令和7年8月6日

お寄せいただいた戦争にまつわる体験談等及び市で独自にインタビューを実施したものを以下に掲載しています。ぜひご覧ください。

※応募者に係る個人情報は、ご本人の了承を得た上で掲載しています。

お寄せいただいた体験談等

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(1)市内柳窪在住/昭和7年生まれ/小町悦子さん

                      「爆撃」

 昭和十九年、私の通っていた女学校は、中央線武蔵境駅と、西武線田無駅の中間にあり、近くに中島飛行機製作所の大きな工場があった。
 空襲のサイレンが鳴ると、生徒達は急いで防空頭布を被り、救急袋を肩に下げ、カバンを持って一斉に下校する。家に早く帰るのが一番安全という学校側の措置であった。私は女学校一年生だった。
 その日もサイレンを聞き、同級生四、五人が一緒で急いで駅に向った。
 駅までのほぼ中間地点に森がある。丁度その森にさしかかった時、B29の爆音が聞こえた。突然「ピューン」という風を切る音のあとに「ドカーン」と爆弾の炸裂する音がした。耳をつんざくような音だった。
 「私達が狙われている」そう思い急いで雑木林の窪みのある場所に隠れて身を伏せた。
 目と耳を指で塞ぎ、頭を低くした。土の固まりらしいものが木に当るのだろう。ばらばらと聞えてくる。
 みんな無言だった。
 B29は三機ずつの編隊を組んで頭上を通り過ぎて行く。その度に大きな爆弾を落して行った。
 地爆音と、炸裂の度のドカン、ドカンという音。少し間をおいてばらばらという落下物の音を何度聞いたことだろう。
 艦載機らしい小型の飛行機は、機銃掃射をかけるらしく、機関銃を乱射する音が聞こえる。目と耳を長いこと両手でふさぎ敵機の去るのを待った。
 友達は悲鳴を上げ「助けて!」を繰り返えし、最後は「南無阿弥陀仏」を唱え始めた。
 どれほどの時間だったろう。三十分も続いたのだろうか。敵機は去り、静かになった。
 みんなの顔は泥だらけになっていた。それでも怪我をした人もなく皆元気で助かったのは嬉しかった。
 「今日のは、中島飛行機がやられたのね。あれだけ爆弾を落されたんでは全滅でしょうね」と話し合った。
 誰れかが救急袋の中から炒った大豆を出して食べ始めると、みんなそれに連られて食べ始めたが、みんな目は涙ぐんでいた。
 「私達こんな時、一緒にいて助かったこと一生忘れないようにしようね」一番背の低く、悲鳴を上げていた青木さんがみんなに指切りを始めた。
 駅に向かう道すがら、敵機から電波防害のためにまかれたアルミ箔のテープが畑のあちらこちらに落ちて、それがからまりカリカリ、カリカリと音を立て、日光に照らされてまぶしく光っていた。
 電車は運休になり、線路づたいにとぼとぼと私達は歩いて家に帰った。
 翌日、学校に行くと幸にも校舎は無事であったが、学校の広い農園や栗林の中に、爆弾の落ちた大きな穴があちこちにあけられ、校庭も恐ろしい大穴のため使用禁止の立札が立っていた。
 それから暫くの間、学校は休校になった。

                 

                    「終戦 八月十五日」

 「今日の十二時に、天皇陛下の玉音放送があって、日本人は、一人残らず放送を聞かなければならないのだそうで、お昼のうどん作りを早目に始めるからそのつもりで手伝いしてね」
 母は私にそう言いつけると板敷になっているお勝手に、大きな板台を出してうどん作りを始めた。
 毎月一日、十五日は農家では「遊び日」になっていた。遊び日には使用人は午後の仕事は休んでお手当なのだろう、お金を渡されるとそれぞれどこかに出かけ行く。
 私達子供は小遣いをもらって友達と駄菓子屋に行ったり、たまに使用人に映画に連れて行ってもらったこともある。その「遊び日」にはきまってお昼の食事は手打ちうどんになっていた。八月十五日 その日も遊び日で、私は女学校二年の夏休み中だった。
 私はもみがらを燃やす専用の竃に火をつけた。お釜にいっぱいお湯を煮立たせて母の手打ちの麺を茹で上げ、その残り湯で千切に大根と茹子を茹でて、うどんの糧の用意をした。
 おつゆの出しの鰹節を削るのは妹の役目だった。
 昼食の用意はでき上った。父がお座敷からお勝手にラジオを運んできた。祖母を始め家族全員がラジオの前に座った。
 十二時、天皇陛下の玉音は流れ始めた。そのお声はまるで台風の中のお声のようにとぎれとぎれで雑音が混じり、お言葉の意味は全然理解できなかった。
 「お父さん、天皇陛下の玉音放送はなんだったの」と尋る私に、父も、「なんだかよく聞きとれなかったなー。何だろう。まあその内わかるだろうよ」
 父までがそんな状態だった。
 みんな不審を抱きながらお昼のうどんを食べた。
 四時頃だったろうか。
 「号外!号外!」
 鈴を鳴らしながら叫んで走り行く人が居た。門前に散った小さな紙片を拾うと、「戦争終決。無条件降伏」のちらしだった。
 なんで戦争を止めてしまったんだろう。日本人は未だこんなに居るのに。あんなに日本人は一人残らず大人も子供も居なくなるまで戦うのだと教えられたのに。どこの家も竹槍を用意して毎日のように上空を飛んで来る敵機の来襲にも愚痴も言わず、必死でここまで守って来たのに、日本が負けたなんて考えられなかった。
 「お父さん 日本は本当に負けたって言うけど、これから先どうなるのかしらね」
 「判らないなあ、アメリカ兵だって人間なんだからそんな悪いことはしないだろうよ。日本人が負けて何もしないって事がわかれば、人を殺したり、銃を向けたりしないと思うよ」
 「もしもアメリカ兵がこの家に来て何か奪って行くような事をしたら、お父さんどうするの」
 「その時は黙って持って行かせるんだな」
 私は父の言葉が信じられなかった。そんなに父は意気地なしなのだろうか。空襲になる度に村役場にかけつけ、村内の指令に当っていた人なのに、私は不思議に思った。
 村の中でもわりと大きな構えのこの家は、きっとアメリカ兵が襲ってくると思い、私はその時は押し入れか蔵の中に隠れようと妹と想談していた。
 戦争が終ったことも信じられなかったが、欅の大木に囲まれた我が家の広い庭から見上げた空は青く、その日は不思議にも一機の飛行機が飛んだ様子もなく、本当に静かな一日だった。
 戦争が始ってから我が家の使用人は一人、また一人と兵隊にとられて男手はなくなっていた。女中すらいなくなり、私が生まれてこの方始めて使用人の居ない生活をしていた。病身だった母の手伝いは私と妹がした。風呂の水も、お勝手で使う水運びも二人の役目だった。
 終戦から二年後母は亡くなった。
 八月十五日が来る度に家族全員が揃って暮らしていたあの時のうどん作りの光景が鮮明に蘇り、戦争中とはいえ平和で幸せだった家庭が想い出されてならない。

 

                                        令和6年5月31日 寄稿

(2)市内氷川台在住/昭和29年生まれ/石井れい子さん

                  「ニューギニアで眠る叔父」

 私は、今から11年前に政府派遣の慰霊巡拝の旅で、姉と2人でニューギニアへ行ってきた。現地での移動はほぼ小型セスナ機だったが、海をボートで往復移動する事もあった。
 それは8日間の旅でホテルが3回変わったが、最後に泊まったホテルは翌日、合同追悼式が行なわれる、『ニューギニア戦没者の碑』という、ニューギニアやその周辺海域で戦没したすべての人達の霊をなぐさめるために建設された、厳かな建物がある場所の近くだった。その追悼式当日は、どこまでも青空が広がったとてもいい天気で嬉しかったが、私は式の間中、いまだに遺骨が故郷に戻らずこの国のジャングルの中で70年近く眠り続けている叔父の無念の思いがこみ上げてきて、ただただ泣き続けるばかりだった。
 写真でしか知らない叔父だったが、おばあちゃん子だった私は、祖母が口癖のように、『息子は戦死したと言って白木の空箱で帰ってきたが、ニューギニアのどこかできっと生きているはずだ。』と言っていたので、自分が大人になったら叔父を捜しにその国へ行って祖母を喜ばせてあげたいなと思っていた。
 そんな夢が大人になって本当に叶い、訪ねた叔父の最期の地は、『生きては帰ってこられないニューギニア』と言われたほどとても過酷な所だった。
 あの時代、国から届いた1枚の赤紙で、叔父をはじめ、たくさんの人達が国や親やきょうだいや妻や子供を守る為にと言って亡くなっていった無念の思いを無駄にしない為にも、私達は今のこの日本の平和を守り続けていかなければいけないと強く思う。
 私がニューギニアへ行けたのは、叔父が南方の地で私がくるのを70年近くも待っていて、戦争の悲惨さや残酷さを私に伝えて、もう二度と戦争はしないでほしいと私に言いたかったのだと思った。
 今、世界中のどこかで争いがあるが早く争いが終わるようにと心から祈っている。終り。


                                        令和6年5月31日 寄稿
 

(3)市内八幡町在住/昭和18年生まれ/齋藤邦子さん

                      「父と母」

 私は福島の片田舎で終戦間近の昭和十八年に生まれました。私が二才の時父は三十一才の若さで硫黄島で玉砕しました。
 死亡通知から数年後に帰りきた父は小さな桐の箱に入った一握りの砂でした。
 父の戦地からの手紙どれにも「お国のために戦っている」と書かれてありました。軍人の妻子として明かるく正しく生きよとありました。
 二十年前姉と硫黄島墓参の機会があり、飛行機の中で姉から父出征の時二才の私の頭をなでて「邦子大きくなっていろよ」との記憶を話してくれました。
 現在の硫黄島は穏やかなエメラルド色した海咲きみだれる花々、あの悲惨な出来事は信じられない平和な島となっています。
 しかし一周すると一夜にして山半分が弾丸で砕かれた擂(すり)針(ばち)山、壕の入口の無数の弾丸痕、火炎銃で焼かれた壕内をこの目で体で感じてふるえた事を忘れることが出来ません。
 アメリカは三日で落とすと責めた硫黄島でした。日本軍は援軍もなく一カ月の間「一日でも長く本国の為にと戦い」二万予の尊い若い命がなくなりました。
 あれから八十年近い今、あの出来事を忘れているのか不安です。
 今奇しくも朝ドラでの出征で〝バンザイ〟と送り出される場面がありました。遠き昔赤紙(みなさんわかりますか)が届き三日後の父の出征。となり部落への挨拶で何ひとつとうちゃんと話ができなかったと泣いて話してくれた母を想い出します。
 戦争ほど愚かな事はありません。地球は一つです。守ってゆくのは人間です。
 かあちゃん今大好きなとうちゃんと笑っていますか。
 とうちゃん私はもうとうちゃんの倍の人生を倖に生きています。昔とうちゃんの親友が私の顔をみて和伸(父の名前)にそっくりだと泣かれた事があります。
 とうちゃん、私の命ある限(かぎ)り私と一緒です。そして「良く頑張ったと頭をなでて下さい」
 とうちゃん
 かあちゃん ありがとうございました。

 

                                        令和6年7月3日 寄稿
 

(4)市内中央町在住/昭和13年生まれ/まっちゃんさん(匿名)

                  「父が語ってくれた戦争」

 私がまだ四・五才だった頃父は南方へ出征し、たまに家族に顔をみせにくるぐらいでした。戦地にかえり、家で母と外に出ると遠くの空が夕焼の様に赤くB29というアメリカ軍の飛行機がしょうい弾をおとしていると教えてくれました。また白衣、杖の兵隊さんが、ハモニカを吹き前の空缶に小銭が入っているのがみられました。空には気球がうかび、私も千人針の一さしでも良いといわれさしてあげたのをおぼえています。
 六才になると関東の山のある農村に母、兄姉、次姉は集団疎開から帰り末っ子の弟が母のお腹に、八人で農家の二階に引越しました。布団、鍋かまだけで後で長姉と長兄が東京の下町の我家へとりにいったらまるやけでした。食糧も母が着物・帯を野菜麦などと物々交換しタケノ子生活でやりくりしていました。 
やがて日本が負けて父も無事にかえってきました。そんなとき私以下の妹弟にはなしてくれました。海軍兵だった父は、ガダルカナルの海上で軍艦に乗って夜寝ていたらずどんと衝撃があり、海の底にすーとすいこまれ、もがいていたら、ゲートル、外套が浮力となり海面にうきあがりイカダにひろわれたそうです。頭や顔にケガをした人が天皇陛下バンザイ、お母さんありがとうさようならと暗い海に沈んで行ったと…。
 ああ弟よ、君を泣く君死にたまうことなかれ親は刃をにぎらせて二四までを育てしや。かの有名な与謝野晶子の詩をまぜ入れて、中学生になった私は反戦の作文を全生徒の前で壇上で朗読をしましたボロボロの下駄ではみっともないと思い前に並んでいる友達にかりて……。疎開っ子といじめられたこともありましたが、その頃はもう田舎の元気な子供でした。桑の実や山の木いちごなどかけめぐって空腹をしのいだこともあります。   
上京して結婚し子を育て老きょうになった今平和な日本で良かったと、世界は侵略、内戦、宗教がらみのあらそいで女性、子供が犠牲になっています。テレビなどでみると胸がいたみます。早く大切な人の命をうばう戦争はやめて欲しいと思い第二次世界大戦をみてきた自分の生活と父の体験を書いてみました。以上


                                        令和6年7月2日 寄稿
 

(5)市内浅間町在住/昭和7年生まれ/土屋哲子さん

                   「哲子の戦争体験」

 敦子から娘(葵ちゃん)に伝えたいので書いておいてと言われペンをとりました。
 私の戦争体験は昭和十六年(一九四一年)十二月八日ラジオから流れる「本日十二月八日未明我日本国は、アメリカ、イギリスと戦闘状態に入れり」という放送で始まりました。私は小学三年生でした。
 一年前神武天皇即位紀元二千六百年の式典があり宮城(きゅうじょう)に提灯(ちょうちん)行列など家族と見に行きました。お祝いでしたのに国が戦争に向っている様な不穏な空気を子供ながら感じていて〝とうとう戦争が始まったんだ〟と思いました。
 それからの毎日はラジオや新聞で日本軍の勝利を伝える報道を楽しみに聞いていたように思います。
 近所の若い男の人には赤紙(令状の用紙が赤色だった)という召集令状が届く様になり、戦地に行くのを町会全体で日の丸の旗を振って見送りました。両親や家族も出征して戦地に行きもう帰って来ないかも知れない我子を名誉なことと、涙も見せず見送りました。
 母親達は、銃後(じゅうご)(戦場の後(うしろ)で家庭等)を守る為に国防婦人会が結成されました。私の母も白い割烹(かっぽう)着(ぎ)を着てたすきをかけ敵機が来襲し焼夷弾が落され焼かれた家を消す演習等していました。
 各家の前には、防火用水(水を入れる水槽)が置かれていて、そこからバケツで水を汲み皆でリレー式で火元に運び消す訓練ですが、後にわかった事ですが次々と焼夷弾が落とされる上、油が入っていたとかでバケツの水で消せる状態ではありませんでした。
 家々のガラス戸には、十字やバッテンに紙を貼りました。爆風で、割れるのを防ぐ為です。夜は灯りが外にもれて敵の飛行機から民家のある事がわからないように電灯には黒い布をまいてその下だけ明るくしていました。その為外は夜になると真暗でした。又、各家毎に、防空壕を掘りました。焼夷弾等落とされた時に身を守る為人間が四、五人はいる事の出来る大きさのが多いのですが、入り口にもふたをして中に火が入いらないようにしていました。
 敵機が来襲するのがわかると警戒警報、近くに来ると空襲警報のサイレンが鳴ります。空襲警報になると防空頭巾をかぶり貴重品をもって防空壕に入いりました。まだ戦局が厳しくない頃でしたが近くの叔父の家から帰る時に遅くなり外は真暗でよその家の防空壕に姉が落ちてしまった事もありました。顔の打撲で母が一晩中姉の顔を冷やしていて、私も姉のけががどんなにひどいのか心配しながら寝たのを思い出しました。
 昭和十八年(一九四五年)には、学徒出陣がきまりました。これからの日本を担(にな)って行く人財として大学生は、召集を免除されていたのですが戦地で戦ってくれる若い人が足りなくなったのだと思います。
 そして国は更に若い人を空襲で失なわない為に都会の小学生を疎開させることにしました。
 その学童疎開には、地方の親戚や知人宅に行くのを縁故疎開と云い学校毎に地方のお寺や旅館等に行くのを集団疎開といいました。何らかの理由でどちらにも行かない生徒は、今迄の学校に通い残留組と言っておりました。
 私は両親の里が富山県にありましたが、日頃あまり行き来していないのにひとりで行くのは淋しいと思い、集団疎開なら学校のお友達が一緒でいいのではないかと集団疎開を選びました。
 昭和十九年(一九四四年)八月中半 その日はやって来ました。東京から宮城県の鳴子へと旅立ちました。それは両親姉妹と永遠の別かれになるかも知れませんのに私は六年生で更に幼稚だったのでしょう。遠足にでも行く気分に近かった気がします。
 先に布団と衣類や学用品は行李(こうり)という竹であんだ衣装箱に名札をつけて鳴子へ送りました。当日は、おべんとう、手作りの小豆(あづき)の甘納豆他をリュックサックにいっぱい入れてもらい出発しました。
 鳴子は温泉地でコケシが有名です。私達を受け入れてくれた旅館は「姥の湯」といい湯治場という農家の人や病気療養の人達が長期間自炊等して滞在するひなびた旅館でした。町中硫黄のにおいがいっぱいでした。お風呂は大きかったです。
 先生と寮母さん、生徒は小学三年生から六年生で全員で二百名位?よく覚えていませんが。六畳か八畳の部屋に六、七名地域毎に三年生から六年生一緒です(後に学年別になりましたが)。両方共男女は別でした。疎開の一日は、旅館裏の河原での体操で始まり、朝食、学年別に分かれて勉強、午后は、草取り等作業が多かった気がします。
 何といっても食糧が不足している時代でしたのでご飯は、中に大根や、さつまいものまざったものでお茶わんに八分目、おかずは、お魚一切れ、汁物、煮物がある日もあったかも知れません。後に聞きましたが、他の疎開地の食事よりずっと良かったみたいです。殆んどの子供はおなががすいて辛かったようです。私は少食だったのか辛かった思い出はないのですが、勿論おやつ等なくお手玉に入っていた大豆を取り出し火鉢でいって食べたりしました。
 疎開先には、順番に家族が面会に来てくれました。疎開していた八カ月間に二回でしたがその時は、親が持って来てくれたおはぎ等別室でおなかいっぱい食べられるのです。急に沢山食べるので、お腹(なか)をこわす子が多勢いました。
 面会は日帰りか一泊でした。母が帰る時は、姿が見えなくなったら涙が止まりませんでした。私は六年生で上級生であり班の班長。泣き顔で自分の部屋に戻るわけにはいきません。宿の廊下をぐるぐると何回廻ったか?涙の止まるのを待ちました。
 後年。面会の時母と一緒だった、お友達のお母さんから私の母が、鳴子から乗り換えの仙台駅まで、ずっと泣いていたのよと聞かされました。今思い出しても涙ぐんでしまいます。あの時が永遠の別れとならず本当によかったです。
 鳴子は宮城県、今より雪が多く冬は雪道のかわく事はありませんでした。どこに行くのも急な坂を登り降りしなければならず雪道用の靴などなくすべらない様歩くのが大変でした。すべるといえばお手洗の足元も凍っていてつかまる所もなく、落ちない様に用をたすのが必死でした。今の様な便器ではないので、体ごと落ちるのです。
 洗たくは寮母さんがしてくれました。しらみ(寄生虫)等もいるようになり熱湯で消毒などして下さっていました。
 持ち物(衣類や学用品・洗面道具他)は行李(こうり)の身とふたに納められ、部屋の壁側に六人分が並んでいます。
 当時から整理が下手だったので、私のところが一番乱れていたようで、寮母さんから「哲子さんは家で何もしてなかったんでしょ。お母さんに甘えて」と言われ、上級生でもありはずかしい思いをしました。
 風邪など病気もしましたが、遠い診療所にもつれていってもらいました。夜中、咳をしていると先生がいらっしゃってお風呂に入ってみましょうと、つれていって下さいました。大きなお風呂に夜中、ひとりはいり、先生が待っていらっしゃる。はずかしかった思い出があります。大人になってからありがたかったと思ったわけです。
 遠足にも行きました。鳴子は景勝地でもあり鳴子峡にも行き湯けむりの先に見える秋の紅葉は初めて見る美しさでした。今でも思い出せます。
 町全体は、コケシを作っているお店が多く、お休みの日にはお友達と見に行っていました。各々(それぞれ)お店には特徴はあるのですが、絵柄は、鳴子独得のもので大体同じでした。私もいくつもおみやげに買いました。背丈が三十センチ以上もあるのも買いました。
 後に富山県に再疎開した時、二、三才だった妹が、そのコケシを(とても重いのですが)お人形さんとしてひもでおんぶして田んぼに落ちてしまい大さわぎしたことがありました。
 買ったコケシは、鳴子から東京、富山、東京と戦時中も大事に、持ち歩いていました。
 家族とも別れ質素な食事、寒さなど集団疎開は辛かった筈ですが、最上級の六年生で、みんなの模範にならなければという立場と性格から、面会に来てくれた母が帰った時以外は、悲しいとかさびしいとか思いませんでした。一つには、六年生で翌年の三月には、卒業。東京に帰ることがきまっていたからかも知れません。
 そして、その時がやって来ました。
 昭和二十年(一九四五年)三月九日 六年生全員と担任の先生は、鳴子を後に東京に向かいました。
 全国の集団疎開をしていた六年生は前後して東京他、親元に戻りました。
 夜行の貸切列車にのりみんなようやく家に帰れるのですから嬉しかったと思います。夜になりうつらうつらと眠りかけた頃列車は停車。先生から列車の座席の下に避難する様に指示がありました。避難訓錬は日頃やっていましたので防空頭巾をかぶり目と耳を手でおおい座席の下にもぐりました。
 鳴子では一度も空襲はなかったので、何がおきているのかわかりませんでした。空襲警報が解除されたのでしょうか、車中に電灯がつき座席の下より出るようにとの事。子供ですよね。避難しながら、眠ってしまった子もいました。
 列車の外は真暗。でも遠くの空が真赤に染っていました。止った所は、平(たいら)駅(福島県)で空襲で燃えているのは、東京方面だとの事でした。
 先生から聞かされても空襲で、焼夷弾かおちて焼けた所のある事は知っていましたが、テレビ等ない時代で、私は見たことはありませんでした。ですから不安はありましたが、自分の家が焼けていたらどうしようなどとは、全く思いませんでした。
 外がうす明るくなった頃警報が解除されたのでしょう。列車がのろのろと動き出しました。
 何時間たったのかわかりませんがすっかり外は明るくなり列車は駅につき降ろされました。
 降りた駅は上野ではなく、北千住でした。昨夜からの空襲で列車は上野駅まで行かれなかったのです。先生の後について歩きはじめるとあたり一面焼野原でした。何があったのかわかりませんでした。
 私達は小石川(現在の文京区)の礫川小学校に帰らなければなりません。引率の先生も当然初めてのことで道順もわからなかったと思います。焼野原で歩いている人もおらず、人を探して道を聞いている様でした。私達は、お友達と話すでもなくただ先生の後をついて歩きました。途中、小学校で休ませてもらいお水をいただきました。どの位歩いたのか全くわかりませんが民家が見えてきました。焼けてないところに来て少しホットしました。緑の生垣のある民家の細い道でした。
 更に歩いて私の礫川小学校は焼けずにありました。母も迎えに来てくれていました。
 (後に地図を見ますと北千住→日暮里→谷中→千駄木→向丘→西片町→小石川礫川小学校(さだかではありません)歩きましたようです。)
 学校での事はあまり覚えていませんが、八カ月ぶりに無事に帰って来ましたのに、先生の簡単なご挨拶があっただけで、すぐに母と家に帰りました。
 家には、父や姉、妹に久しぶりで会ったのでしょうが、ショックが大きかった為でしょうかその時の記憶がありません。
 私の戻って来た日は、五大東京の大空襲といわれる三月九日から十日の大空襲の日だったと後にわかりました。
 はじめての東京大空襲で東京下町の殆んど全部二十六万戸が焼かれ、十万人が亡くなったと言われています。
 東京全区の小学六年生は私達と前後して帰京したわけで帰って来たら、家も家族も亡くなって孤児となった子供もいたわけです。
 私の自宅は小石川区春日町(今の文京区本郷)でこの空襲で、数十メートル先は、焼かれましたがその時は私の家は残っていました。私自身、孤児になった可能性と紙一重だった訳です。
 戦時中ながら、家族そろっての生活がはじまり先ずご近所に帰って来たごあいさつに行ったりしました。喜んでくださったと思うのですが、「哲子ちゃん色が白くなったわねぇ」と言われたことが一番心に残っています。私も女の子だったのだと後年おかしくなりました。鳴子の硫黄温泉に八か月毎日入っていたからだと思います。
 小さな幸せは長くは続きませんでした。
 帰ってから一カ月後の四月十三日の夜大きな空襲が又ありました。(五大東京大空襲のひとつです)
 家族(父は見はり番)は、はじめ防空壕に入りましたが、敵機が近いから、出て逃げた方がよいとのこと母と姉は妹を背おって、私の四人は、前回の三月十日に焼けてしまった本郷に向って逃げました。私は必死に母達についていきました。
 空を見ると真暗な中焼夷弾が次々と落とされ真赤に光ったり飛行機もそのあかりでせんかいしているのが見えました。いつ頭に落ちるかわからない状態で生きたここちがしませんでした。
 本郷東大病院の近くの本郷消防署の地下に入いりようやくひと息つきました。前回の空襲で焼けてはいますが外壁は残り地下は大丈夫でした。
 敵機も去り空襲も解除になったのでしょう。
 父は、家に残っていましたし、自宅のことも心配で家に戻りかけました。まだ明けきらずうす暗い中、遠くから父が自転車をひいて来るところでした。父と無事に会うことが出来、うれしかったです。
 その時父から「家は焼けたよ」と聞かされても、「あぁそう」という位で、悲しかった記憶が全くありません。
 あたり一面家の焼跡を見ているのですが父と戻って見たのかどうかもわかりません。
 家がなくなり私達は、柳町小学校が焼け残ってましたので避難のためそこへ行きました。そこでは家族毎に、手持ちの缶詰などで食事を作りさけ缶の入ったおじやを作ってもらいおいしかったのを覚えています。学校に一晩いたのか二晩いたのか又切符をどうして手に入れたのかもわかりませんが、私達は、父母の里 富山に行きました。
 列車は、貨物列車でした。昔は十二時間は乗っていたはずですが何を食べたか?トイレはどうしたのかこれも全く覚えていません。父母や姉に聞いておけばよかったと本当に残念です。自分で日記等記録することも出来たわけですがそんなこともしていませんでした。
 次々と起こることがショッキングなことばかりで、神経というか心が正常に仂いていなかった気がします。
 富山に着き、先ず母の里に行きました。
 福野の駅から十分位の松原(まつわら)という所で、祖母、叔父(母の長兄)叔母(母の未の妹)と、東京京橋に住んでいた母の次兄の家族(疎開して来ていた)達に会えました。元々きまっていたと思いますが数泊の後父の里に行きました。やはり福野町ですが八塚(やつづか)という、松原から一里程はなれたところでした。
 祖母、叔父(父の兄)叔母、その子供(私のいとこにあたる)五人が住んでいました。そこの家の納屋に住む事になりました。
 結構広かったのですが畳ではなくむしろが敷いてありきれいではありませんでした。それでも家族だけで食事を作ったり食べたり出来たので、母など本家の姑や義兄への気がねも少く良かったと思います。お米やお野菜他本家からいただいて生活していたと思います。
 特に伯母はやさしくいつもにこにこ話かけてくれました。祖母も、自分の部屋からおかき等出してくれました。同年代のいとことも仲良くして自分の家の畑からスイカを取って来て二人だけで食べたりいたずらもしました。
 私は三月十日に疎開から東京に帰ってから、都立第二高女に入学しました。空襲等で、入学式もないまま家がやけ富山に来てしまいましたが、数カ月後富山の砺波高女から編入出来たとの通知があり通いました。
 登校してみますと、しっかり皆は勉強していて、英語などの文章などもスラスラ読み、他の教科もわからない事が多くどうしようかと思いました。又、朝全校生徒が学校の周辺をかけ足でひと廻りするのですが、はだしでです。皆は痛くないのでしょうか?ジャリ道もあり、都会育ちの私は痛くて痛くて閉口しました。
 そんな大変な時でも人間走りながらいねむりがでるのです。原因は、むしろの部屋だからでしょうか、夜になるとノミがでてさゝれるので眠れないのです。みんなで起きてノミ退治をする為です。ノミは飛ぶのでなかなかとれませんが、とれてつぶすと真赤な血が出て血の出た時は快感でした。さゝれたところは、赤くはれ又栄養失調からかいせんという皮フ病にもなりました。
 勉強は、わからないし走るのは痛いし、小学校で優等生だった私は、がんばる意欲をなくしよく学校を休みました。
 その年の五月の末、まだ戦争は終わってないのに父は東京へ行きました。父は農業が出来る訳でもないので、東京に戻るための家を探しに行きました
 ところが運悪く、五月二十五日の東京大空襲に遭遇してしまいました。自宅が焼けた時よりもっとこわい思いをしたそうです。富山に戻って来た父は、東京はもうだめだと言って東京に帰ることをあきらめ富山で醤油工場に勤める様になりました。
 東京では、ラジオや新聞で日本軍の戦果などみていましたが富山では空襲もないので、私の戦争への関心はうすれていた気がします。今もう忘れただけかも知れませんが。それでも八月六日にそして八月十日に広島と長崎に新型爆弾が落されたことは、大人達から聞いて不安になりました。
 そして八月十五日、終戦の日が来ました。敗戦です。直接ラジオは聞きませんでしたが、親から聞きました。空襲などなくなり電灯もつけられるという喜びはなく、これから日本はどうなるのか女性は連れていかれるなどの話も聞いておそらく暗い気持でいっぱいでした。
 私の戦争体験は、ここで終わりです。


                                       令和6年8月2日 寄稿

(6)市内幸町在住/昭和19年生まれ/渡辺盛夫さん

               「戦争を語る ~ 遺骨収集発掘の体験から」

 私が遺骨収集に興味をもったのが、現職中、しばしば硫黄島を訪れたことに始まる。某建設会社の所長から「まだ、こんなご遺体が出るのですよ」と見せられたのが、戦闘帽を被った日本兵の白骨遺体だった。戦闘が激しかった硫黄島で完全遺体は珍しい。これを契機に遺骨収集に参加することとなった。
 最初の訪問地はロシア北東のシベリアであった。多くの日本兵が終戦直後、捕虜となりシベリア各地の収容所に収容され、強制労働に従事し、極寒の地で命を落とし、故郷の地を踏むことなく、シベリアの地に埋葬された。その数5万6千人。
 私が遺骨収集に参加したのが2018年の夏だった。シベリアの大地は広い、成田からウラジオストック、ハバロフスク経由でシベリア鉄道に乗り換え、丸一日経て、コムソモリスク駅。バスに乗り換え目的地のゴーリン村へ。
 毎朝8時に食堂に集合し、ロシア風の食事を済ませ、昼食にピロシキ(ロシア風のパン)をもって、車で近くの現場に向った。日本人スタッフ10人、現地作業員、ロシア人スタッフ10人で発掘調査が開始された。当時のロシア軍の埋没地図を頼りに発掘が開始された。シャベルカーで約1mほど掘り下げると、ご遺体の一部が露出してきた。ここからは熊手、刷毛を使って掘り出し、丁寧に骨に付着した土を落とした後、頭蓋骨、大腿骨、すべての人骨の骨が1ケ所に集められた。ご遺体は等間隔に埋葬されていた。一日、5遺体以上回収し、1週間で43体を回収、最終日に焼骨し、遺骨として日本国に持ち帰り、DNA鑑定が行われる。
 全遺体は衣類を身に着けておらず、死後、衣類を剥ぎ取られ、埋葬された。現場の最高気温は31.5度で、真夏でも過ごし易い。冬場はマイナス50~60度にもなる、そして酷寒での強制労働、食事は黒パン少々、大概のご遺体は虫歯に蝕まれていた。シベリアの大地は、鳥、動物、昆虫などの生物の存在は一切見られない。作業中は大量の蚊、殺人ダニに噛まれる恐れから、常にネット帽子に防虫スプレーは手放せなかった。以前持ち帰ったご遺骨に外国籍のご遺体が混じっていて社会問題となったが、今回は優秀な日本人鑑定士が同行しているので問題ないだろうと確信している。

 2023年夏、日本から1200km離れた南の孤島サイパンは、太平洋戦争の終戦間近、日本の戦略的要衝であった。米軍は大量兵器、人員をもって、南海の孤島を攻め立てた。この島には島民(日本人2万)日本兵3万が駐留していたが、戦力で勝る米軍に対しては、日本兵は小高い石灰岩の洞窟に立てこもり、応戦するしか道はなく、勝ち目がないと判断した大隊は、夜間にバンザイ突撃で多くの将兵が犠牲になった。海岸には、大量の日本兵死体が散乱していたと言われる。それでも米兵は立て籠もる日本兵には火炎放射器を、また手榴弾を洞窟に投げ込んだ。私共は毎日、洞窟内捜索したが、砲撃などで岩盤が崩れており、大岩、小石を取り除くのに時間を要した。骨は石灰岩に同化し見分けがつきにくい。大きな大腿骨、上腕骨などは目視で判断できるが、小骨は振るいに掛け、石灰岩の小石と区別が付きにくく、専門家に聞いたものだ。日本兵携行品(水筒、小銃、弾薬、認識票)も発見された。ある日、全員で島内巡視した。米軍に圧倒された日本兵が、島の奥へと逃亡し、行き場を失った兵士や日本人家族はバンザイクリフと言われる断崖から次々と身を投げた。民間人のなかには女子、子供が多くいた。そこには石碑が建立されていた。
 米軍はサイパンを占領すると、テニアン島も制圧し、東京大空襲に向かうB29爆撃機の発着地となった。サイパン島への直行便はなく、グアム経由の不便さ、とレジャー施設が乏しいので観光客は少ない。もっと過去の戦争遺跡を見学に観光客が来てくれればと願っています。

 終わりに

 シベリアでは終戦を迎え、帰国を待ち望んでいた日本兵が捕虜として、満州国からシベリアへ送られ、強制労働(木材の伐採、鉄道の敷設、等)を極寒の地で働かせられ、5万以上の兵士が命を落とした。ご遺体が完全無欠の状態で発掘されたことは幸いであった。
 一方、サイパンでは、米兵との激しい戦闘で、砲弾、火炎放射器による火炎で、洞窟全体が黒変し、ご遺体と一見して分かるものはなく、骨片を集めて、DNA鑑定する場合が大部分であった。サイパンは東京の暑さほどではないが、蒸し暑さと洞窟内の作業のため、高齢の私にとっては堪えた。
 戦後80年を経て、戦争の記憶が薄れる中、私自身戦争の体験はしてないが、戦地に赴き、過去の痕跡に触れられたことは幸運であった。


                                        令和7年4月11日 寄稿

インタビューを実施した体験談等(協力:東久留米市郷土研究会)

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(1)市内幸町在住/昭和10年生まれ/當麻武男さん

                    「私の戦争体験談」

 戦争が始まった頃は、まだ小学生くらいの時だった。
 その頃は、戦争というのをよく理解していなかったが、アメリカの爆撃に備えて、防空壕を掘ったほうがいいという村の指示があったものの、当時ほとんどの家では手を付けていなかった。
 ある日、アメリカの飛行機が12機くらいだったか飛来した時に、見ていたら、バラバラっと爆弾が落ちてきた。みんなで「隠れろ」と声を掛けあったが、防空壕を掘っていないこともあり、隠れるどころではなかった。
 東久留米駅のあたりに10数発の爆弾が落ちた。これは、田無の中島飛行場(中島航空金属田無製造所)を狙ったものだったと後から聞いた。
 そのあと、私たちは急いで庭のケヤキの木の下に防空壕を掘って、爆撃に備え、夜も電灯をつけないようにしていた。夜には空襲警報があり、そのたびに何度も家族5,6人で命を守ることだけを考え、必死に防空壕に逃げ込んだことは今でも鮮明に憶えている。いつ爆弾が落ちるかが何より心配で、子供も老人もみんな一つになって耐えた。
 食事は麦飯にさつまいもやとうもろこしを混ぜた、残飯のようなものだった。
 学校では、みんなで仲良くしましょうというような雰囲気で、先生からも戦争についての話はなかった。
 1945年8月15日、学校で全校生徒が集まる中で、校長先生の「戦争が終わったんだよ」という言葉で終戦を知った。自分はよく助かった。これで一安心だと思った。
 終戦後、小山地区には爆撃などの被害はなかったが、焼け出され、住む家をなくした被害家族2・3人を家に泊め、しばらく一緒に生活していた。
 周囲にも知り合いを頼りに助け合って生活する姿が多く見られた。都営住宅が建設され、生活に苦しい人たちが住むようになった。当時は勉強よりも生活することが大事だった。みんな一生懸命助け合いながら生きていた。
 令和となった今、何もしない人が犠牲になって、物が食べられず、なぜこのようになったのかが理解できない。戦争とはなんだと改めて思う。

 

                                         令和6年8月7日 取材

(2)市内小山在住/昭和13年生まれ/小山賢さん

                    「私の戦争体験談」

 当時は7歳くらいだったと思う。
 家の周りには畑や林が広がっていた。
 昭和19年に父が招集で戦争に行ったので、祖父母と母と家の裏に防空壕を掘った。
 東京大空襲の時は、夜、東の空が真っ赤だった。次の日の朝、学校に行くときには、東の空が真っ黒で入道雲のような煙がすごかったのを憶えている。
 中島飛行場(中島航空金属田無製造所)上空に戦闘機が来て爆撃をすると、黒い煙が上がっていた。また、お隣の清瀬市には病院が沢山あるため、病院が狙われたようだ。
 夜になると、裸電球に黒い布を巻いて、灯が外に漏れないようにした。そして空襲警報を聞くと、裏に掘った防空壕に逃げ込んだ。爆弾の「ガーッ」というすごい音して、母が覆いかぶさってくれた。直撃したら終わりだな。早く戦争が終わってほしいと恐怖を感じた。幸い自宅や近所には爆弾は落ちなかったが、一番近い爆弾は家から100メートル先に落ちた。
 食事は粗末なものだった。基本的には麦飯にさつまいもを混ぜたものを食べていた。水は昭和27年までは野火止用水を利用していたが、昭和27年に井戸を掘ってからは、井戸を利用していた。
 終戦後も質素な生活が続いた。自宅の近くに残飯を集めるところがあり、ブタを飼っている人がブタのエサ用に残飯を持って行ったりしていたので、夏場は臭いが酷かった。そして主に食料を求めて、多くの人々が買い出しに来た。中には着物を持って来て食べ物と交換してほしいという人もいた。また、医者が少なく、戦争から戻って来た父はマラリアに感染していたが、結局治らず寝たきりになった。
 山へ遊びに行くと、爆弾の跡の穴がたくさんあり、不発弾がたくさん落ちていた。B29はかなり大きかったんだと思う。
 その後父から、22隻でフィリピンに向かったものの、そのうちの2隻しかたどり着けなかったことなど、戦争にまつわる話しをいろいろ聞いたことを憶えている。


                                         令和6年8月7日 取材
 

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