戦争にまつわる体験談等を公開します
ページ番号 1026162 更新日 令和7年4月7日
市では、戦争の悲惨さを記録し、次世代に受け継いでいくため、戦争にまつわる体験談(空襲体験、被爆体験、学童疎開、親や祖父母などから聞いた話等)を募集しています。
お寄せいただいた体験談等を以下に掲載しています。ぜひご覧ください。
※応募者に係る個人情報は、ご本人の了承を得た上で掲載しています。
PDF版
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(1)「爆撃」「終戦 八月十五日」東久留米市柳窪在住/昭和7年生まれ/小町悦子さん (PDF 173.2KB)
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(2)「ニューギニアで眠る叔父」東久留米市氷川台在住/昭和29年生まれ/石井れい子さん (PDF 92.8KB)
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(3)「父と母」東久留米市八幡町在住/昭和18年生まれ/齋藤邦子さん (PDF 94.9KB)
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(4)「父が語ってくれた戦争」東久留米市中央町在住/昭和13年生まれ/まっちゃんさん(匿名) (PDF 106.6KB)
本文入力版
(1)東久留米市柳窪在住/昭和7年生まれ/小町悦子さん
「爆撃」
昭和十九年、私の通っていた女学校は、中央線武蔵境駅と、西武線田無駅の中間にあり、近くに中島飛行機製作所の大きな工場があった。
空襲のサイレンが鳴ると、生徒達は急いで防空頭布を被り、救急袋を肩に下げ、カバンを持って一斉に下校する。家に早く帰るのが一番安全という学校側の措置であった。私は女学校一年生だった。
その日もサイレンを聞き、同級生四、五人が一緒で急いで駅に向った。
駅までのほぼ中間地点に森がある。丁度その森にさしかかった時、B29の爆音が聞こえた。突然「ピューン」という風を切る音のあとに「ドカーン」と爆弾の炸裂する音がした。耳をつんざくような音だった。
「私達が狙われている」そう思い急いで雑木林の窪みのある場所に隠れて身を伏せた。
目と耳を指で塞ぎ、頭を低くした。土の固まりらしいものが木に当るのだろう。ばらばらと聞えてくる。
みんな無言だった。
B29は三機ずつの編隊を組んで頭上を通り過ぎて行く。その度に大きな爆弾を落して行った。
地爆音と、炸裂の度のドカン、ドカンという音。少し間をおいてばらばらという落下物の音を何度聞いたことだろう。
艦載機らしい小型の飛行機は、機銃掃射をかけるらしく、機関銃を乱射する音が聞こえる。目と耳を長いこと両手でふさぎ敵機の去るのを待った。
友達は悲鳴を上げ「助けて!」を繰り返えし、最後は「南無阿弥陀仏」を唱え始めた。
どれほどの時間だったろう。三十分も続いたのだろうか。敵機は去り、静かになった。
みんなの顔は泥だらけになっていた。それでも怪我をした人もなく皆元気で助かったのは嬉しかった。
「今日のは、中島飛行機がやられたのね。あれだけ爆弾を落されたんでは全滅でしょうね」と話し合った。
誰れかが救急袋の中から炒った大豆を出して食べ始めると、みんなそれに連られて食べ始めたが、みんな目は涙ぐんでいた。
「私達こんな時、一緒にいて助かったこと一生忘れないようにしようね」一番背の低く、悲鳴を上げていた青木さんがみんなに指切りを始めた。
駅に向かう道すがら、敵機から電波防害のためにまかれたアルミ箔のテープが畑のあちらこちらに落ちて、それがからまりカリカリ、カリカリと音を立て、日光に照らされてまぶしく光っていた。
電車は運休になり、線路づたいにとぼとぼと私達は歩いて家に帰った。
翌日、学校に行くと幸にも校舎は無事であったが、学校の広い農園や栗林の中に、爆弾の落ちた大きな穴があちこちにあけられ、校庭も恐ろしい大穴のため使用禁止の立札が立っていた。
それから暫くの間、学校は休校になった。
「終戦 八月十五日」
「今日の十二時に、天皇陛下の玉音放送があって、日本人は、一人残らず放送を聞かなければならないのだそうで、お昼のうどん作りを早目に始めるからそのつもりで手伝いしてね」
母は私にそう言いつけると板敷になっているお勝手に、大きな板台を出してうどん作りを始めた。
毎月一日、十五日は農家では「遊び日」になっていた。遊び日には使用人は午後の仕事は休んでお手当なのだろう、お金を渡されるとそれぞれどこかに出かけ行く。
私達子供は小遣いをもらって友達と駄菓子屋に行ったり、たまに使用人に映画に連れて行ってもらったこともある。その「遊び日」にはきまってお昼の食事は手打ちうどんになっていた。八月十五日 その日も遊び日で、私は女学校二年の夏休み中だった。
私はもみがらを燃やす専用の竃に火をつけた。お釜にいっぱいお湯を煮立たせて母の手打ちの麺を茹で上げ、その残り湯で千切に大根と茹子を茹でて、うどんの糧の用意をした。
おつゆの出しの鰹節を削るのは妹の役目だった。
昼食の用意はでき上った。父がお座敷からお勝手にラジオを運んできた。祖母を始め家族全員がラジオの前に座った。
十二時、天皇陛下の玉音は流れ始めた。そのお声はまるで台風の中のお声のようにとぎれとぎれで雑音が混じり、お言葉の意味は全然理解できなかった。
「お父さん、天皇陛下の玉音放送はなんだったの」と尋る私に、父も、「なんだかよく聞きとれなかったなー。何だろう。まあその内わかるだろうよ」
父までがそんな状態だった。
みんな不審を抱きながらお昼のうどんを食べた。
四時頃だったろうか。
「号外!号外!」
鈴を鳴らしながら叫んで走り行く人が居た。門前に散った小さな紙片を拾うと、「戦争終決。無条件降伏」のちらしだった。
なんで戦争を止めてしまったんだろう。日本人は未だこんなに居るのに。あんなに日本人は一人残らず大人も子供も居なくなるまで戦うのだと教えられたのに。どこの家も竹槍を用意して毎日のように上空を飛んで来る敵機の来襲にも愚痴も言わず、必死でここまで守って来たのに、日本が負けたなんて考えられなかった。
「お父さん 日本は本当に負けたって言うけど、これから先どうなるのかしらね」
「判らないなあ、アメリカ兵だって人間なんだからそんな悪いことはしないだろうよ。日本人が負けて何もしないって事がわかれば、人を殺したり、銃を向けたりしないと思うよ」
「もしもアメリカ兵がこの家に来て何か奪って行くような事をしたら、お父さんどうするの」
「その時は黙って持って行かせるんだな」
私は父の言葉が信じられなかった。そんなに父は意気地なしなのだろうか。空襲になる度に村役場にかけつけ、村内の指令に当っていた人なのに、私は不思議に思った。
村の中でもわりと大きな構えのこの家は、きっとアメリカ兵が襲ってくると思い、私はその時は押し入れか蔵の中に隠れようと妹と想談していた。
戦争が終ったことも信じられなかったが、欅の大木に囲まれた我が家の広い庭から見上げた空は青く、その日は不思議にも一機の飛行機が飛んだ様子もなく、本当に静かな一日だった。
戦争が始ってから我が家の使用人は一人、また一人と兵隊にとられて男手はなくなっていた。女中すらいなくなり、私が生まれてこの方始めて使用人の居ない生活をしていた。病身だった母の手伝いは私と妹がした。風呂の水も、お勝手で使う水運びも二人の役目だった。
終戦から二年後母は亡くなった。
八月十五日が来る度に家族全員が揃って暮らしていたあの時のうどん作りの光景が鮮明に蘇り、戦争中とはいえ平和で幸せだった家庭が想い出されてならない。
令和6年5月31日 寄稿
(2)東久留米市氷川台在住/昭和29年生まれ/石井れい子さん
「ニューギニアで眠る叔父」
私は、今から11年前に政府派遣の慰霊巡拝の旅で、姉と2人でニューギニアへ行ってきた。現地での移動はほぼ小型セスナ機だったが、海をボートで往復移動する事もあった。
それは8日間の旅でホテルが3回変わったが、最後に泊まったホテルは翌日、合同追悼式が行なわれる、『ニューギニア戦没者の碑』という、ニューギニアやその周辺海域で戦没したすべての人達の霊をなぐさめるために建設された、厳かな建物がある場所の近くだった。その追悼式当日は、どこまでも青空が広がったとてもいい天気で嬉しかったが、私は式の間中、いまだに遺骨が故郷に戻らずこの国のジャングルの中で70年近く眠り続けている叔父の無念の思いがこみ上げてきて、ただただ泣き続けるばかりだった。
写真でしか知らない叔父だったが、おばあちゃん子だった私は、祖母が口癖のように、『息子は戦死したと言って白木の空箱で帰ってきたが、ニューギニアのどこかできっと生きているはずだ。』と言っていたので、自分が大人になったら叔父を捜しにその国へ行って祖母を喜ばせてあげたいなと思っていた。
そんな夢が大人になって本当に叶い、訪ねた叔父の最期の地は、『生きては帰ってこられないニューギニア』と言われたほどとても過酷な所だった。
あの時代、国から届いた1枚の赤紙で、叔父をはじめ、たくさんの人達が国や親やきょうだいや妻や子供を守る為にと言って亡くなっていった無念の思いを無駄にしない為にも、私達は今のこの日本の平和を守り続けていかなければいけないと強く思う。
私がニューギニアへ行けたのは、叔父が南方の地で私がくるのを70年近くも待っていて、戦争の悲惨さや残酷さを私に伝えて、もう二度と戦争はしないでほしいと私に言いたかったのだと思った。
今、世界中のどこかで争いがあるが早く争いが終わるようにと心から祈っている。終り。
令和6年5月31日 寄稿
(3)東久留米市八幡町在住/昭和18年生まれ/齋藤邦子さん
「父と母」
私は福島の片田舎で終戦間近の昭和十八年に生まれました。私が二才の時父は三十一才の若さで硫黄島で玉砕しました。
死亡通知から数年後に帰りきた父は小さな桐の箱に入った一握りの砂でした。
父の戦地からの手紙どれにも「お国のために戦っている」と書かれてありました。軍人の妻子として明かるく正しく生きよとありました。
二十年前姉と硫黄島墓参の機会があり、飛行機の中で姉から父出征の時二才の私の頭をなでて「邦子大きくなっていろよ」との記憶を話してくれました。
現在の硫黄島は穏やかなエメラルド色した海咲きみだれる花々、あの悲惨な出来事は信じられない平和な島となっています。
しかし一周すると一夜にして山半分が弾丸で砕かれた擂(すり)針(ばち)山、壕の入口の無数の弾丸痕、火炎銃で焼かれた壕内をこの目で体で感じてふるえた事を忘れることが出来ません。
アメリカは三日で落とすと責めた硫黄島でした。日本軍は援軍もなく一カ月の間「一日でも長く本国の為にと戦い」二万予の尊い若い命がなくなりました。
あれから八十年近い今、あの出来事を忘れているのか不安です。
今奇しくも朝ドラでの出征で〝バンザイ〟と送り出される場面がありました。遠き昔赤紙(みなさんわかりますか)が届き三日後の父の出征。となり部落への挨拶で何ひとつとうちゃんと話ができなかったと泣いて話してくれた母を想い出します。
戦争ほど愚かな事はありません。地球は一つです。守ってゆくのは人間です。
かあちゃん今大好きなとうちゃんと笑っていますか。
とうちゃん私はもうとうちゃんの倍の人生を倖に生きています。昔とうちゃんの親友が私の顔をみて和伸(父の名前)にそっくりだと泣かれた事があります。
とうちゃん、私の命ある限(かぎ)り私と一緒です。そして「良く頑張ったと頭をなでて下さい」
とうちゃん
かあちゃん ありがとうございました。
令和6年7月3日 寄稿
(4)東久留米市中央町在住/昭和13年生まれ/まっちゃんさん(匿名)
「父が語ってくれた戦争」
私がまだ四・五才だった頃父は南方へ出征し、たまに家族に顔をみせにくるぐらいでした。戦地にかえり、家で母と外に出ると遠くの空が夕焼の様に赤くB29というアメリカ軍の飛行機がしょうい弾をおとしていると教えてくれました。また白衣、杖の兵隊さんが、ハモニカを吹き前の空缶に小銭が入っているのがみられました。空には気球がうかび、私も千人針の一さしでも良いといわれさしてあげたのをおぼえています。
六才になると関東の山のある農村に母、兄姉、次姉は集団疎開から帰り末っ子の弟が母のお腹に、八人で農家の二階に引越しました。布団、鍋かまだけで後で長姉と長兄が東京の下町の我家へとりにいったらまるやけでした。食糧も母が着物・帯を野菜麦などと物々交換しタケノ子生活でやりくりしていました。
やがて日本が負けて父も無事にかえってきました。そんなとき私以下の妹弟にはなしてくれました。海軍兵だった父は、ガダルカナルの海上で軍艦に乗って夜寝ていたらずどんと衝撃があり、海の底にすーとすいこまれ、もがいていたら、ゲートル、外套が浮力となり海面にうきあがりイカダにひろわれたそうです。頭や顔にケガをした人が天皇陛下バンザイ、お母さんありがとうさようならと暗い海に沈んで行ったと…。
ああ弟よ、君を泣く君死にたまうことなかれ親は刃をにぎらせて二四までを育てしや。かの有名な与謝野晶子の詩をまぜ入れて、中学生になった私は反戦の作文を全生徒の前で壇上で朗読をしましたボロボロの下駄ではみっともないと思い前に並んでいる友達にかりて……。疎開っ子といじめられたこともありましたが、その頃はもう田舎の元気な子供でした。桑の実や山の木いちごなどかけめぐって空腹をしのいだこともあります。
上京して結婚し子を育て老きょうになった今平和な日本で良かったと、世界は侵略、内戦、宗教がらみのあらそいで女性、子供が犠牲になっています。テレビなどでみると胸がいたみます。早く大切な人の命をうばう戦争はやめて欲しいと思い第二次世界大戦をみてきた自分の生活と父の体験を書いてみました。以上
令和6年7月2日 寄稿
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